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ローマの地理ローマの地理 このページでは、都市ローマを理解するうえで前提となる地理を解説します。 |
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古代ローマの地理を考える上で、まず確認しておきたいのは、七つの丘(ローマ七丘)と河。 七つの丘の中心、パラーティーヌスの丘の北にフォルム・ローマーヌムがあった。このフォルム(広場)がローマの政治・経済の中心であった。 |
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ロームルスの城壁 (Murus Romuli) セルウィウスの城壁 (Murus Servii Tulli) 現代ローマと古代ローマの城壁 |
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セルウィウスの城壁からティベリス河までのあいだには、マルスの野と呼ばれる平原がある。伝説によれば、王政最後のタルクィニウス・スペルブス(傲慢王タルクィニウス)がこの平原を所有していた。共和政になったときに、この土地はタルクィニウス一族から没収されて公的なものとなった。 ティベリス河がたびたび氾濫するために、当初マルスの野は居住地にはあまり適さなかった。しかし、この平原は放牧地として用いられるほか、主に軍事訓練を行なう場所として用いられた。軍事訓練の場所であったことから、「マルス(軍神)の野」と名づけられている。ただし、リーウィウスはこの平原が公的なものとなったときに、マルス神のために捧げられたことから「マルスの野」という名前になったと伝えている(2.5)。 都市ローマが拡大するにつれて、土地が不足するようになる。マルスの野も次第に開発が進み、公共施設などが作られるようになった。そのために、後270年頃に築かれたアウレーリアーヌス帝の城壁は、このマルスの野を取り囲むために巨大なものとなる。 ローマの人口はおよそ以下のように考えられている。前350年頃:30,000人、前300年頃:60,000人、前270年頃:90,000人、前200年頃:200,000人、前130年頃:375,000人、後14年頃:800,000人、後164年頃:1,000,000人 (人口については『古代ローマを知る事典』p.172以下に詳しい)。 今日ではこのマルスの野がローマの中心となっている。 |
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ティベリス河はイタリアで3番目に長い河で全長約400キロメートル。流域は約18000平方キロメートルで第2位。アペニン山脈のフマイオーロ山(海抜1407メートル)から始まり、ローマを貫けて、ティレニア海へと注ぐ。 北から南へと流れるティベリス河は、マルスの野のところで大きく蛇行し、カピトーリーヌスの丘のところで再び大きく曲がる。そのためティベリス河は頻繁に洪水を起して、マルスの野やカピトーリーヌスの丘、パラーティーヌスの丘のふもとまで氾濫してきた。洪水が起こるせいで、前述のようにマルスの野は長いあいだ住居には適さなかったが、人口増加に伴ってティベリス河の淵まで居住地が迫った。今日では氾濫することもほとんど無いが、氾濫の痕跡はさまざまなところに残る。 例えば、 ローマ建国の伝説にも残されている。アルバ・ロンガの王の娘レア・シルウィアは、軍神マルスとのあいだに双子の兄弟、ロームルスとレムスを産んだ。王位継承のもつれから、双子は籠に入れられてティベリス河に流される。その籠は、ティベリス河の氾濫によって流され、イチジクの枝に引っかかって漂着した。そこに一匹の雌狼がやってきて、双子を育てる。その後、王となったロームルスはパラーティーヌスの丘に「ローマ方形原領域」を造るのである。 また、オードリー・ヘップバーンの映画『ローマの休日』で有名なスペイン広場には、破船の泉(バルカッチャの泉、la Fontana della Barcaccia)がある。この噴水を、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父、ピエートロ・ベルニーニ(1562-1629)が造った。この破船、すなわち壊れた船は、1598年に起きたティベリス河の氾濫の際に、打ち上げられた船をモデルにしていると言われている。 さらに古代から存在するパンテオンやラルゴ・アルジェンティーナの遺跡は、今日の地表よりも5メートルほど下がったところにある。長い時間をかけて起こったこの地面の上昇には、繰り返し土砂を押し運ぶティベリス河の洪水が少なからず影響している。その洪水の記録は、パンテオン近くの聖母マリーア・ソープラ・ミネルヴァ教会堂で目にすることができる。教会の入口右手には、洪水が達した水位が刻まれている。 このようにティベリス河畔は洪水が頻繁に起こり、居住に適していなかった。その代わりに、河は自然の堀の役割を果たし、右岸からやってくる外敵、特にエトルリア人の侵略を防いでいた。当然ティベリス河右岸は長いあいだ人の住む場所ではなく、河にも木製の橋(スブリキウス橋)がひとつだけかけられているだけだった。外敵が襲ってきたときには、すぐにこの木製の橋を壊して守りを固めた。 古代において巨大な文明を残した多くの都市は、しばしば河川のそばに作られた。その多くの理由は川の水を飲料水に利用するためであった。しかし古代ローマにおいては、ティベリス河は防御の役割を担っていた。 スブリキウス橋の位置 |
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「丘」はMonsとCollisのどちらも用いるが、慣例に従った。 |
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このページの最終更新 2008/1/29 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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