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パラーティーヌスの丘パラーティーヌスの丘 このページでは、帝政期のパラーティーヌスの丘の地図、建物名、解説、復元画像を掲載しています。 参考文献は、「地図で見る古代ローマ」にまとめてあります。 |
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パラーティーヌスの丘(Mons Palatinus)もしくは、パラーティヌム(Palatinum)と呼ばれる。イタリア語では、パラティーノの丘。七つの丘のひとつで、フォルム・ローマーヌムの南に位置している(「ローマの地理」)。周囲およそ2kmの方形で、ティベリス河(伊:テーヴェレ河)から43m高く、海抜は51.2m。 伝説では、捨てられた幼児ロームルスとレムスはパラーティーヌスの丘のふもとにある洞窟(ルペルカル、Lupercal)で狼に育てられた。そして、初代の王となったロームルスは、パラーティーヌスの丘を四角い柵、のちには壁で囲みローマを建国したと伝えられている。この「ローマ方形原領域(ローマクアドラータ、Roma Quadrata)」と呼ばれるこの地区ができたのは、紀元前753年4月21日とされる。 パラーティーヌスの丘には富裕な有力者が居を構えていた。英語の「宮殿(Palace)」はパラーティーヌス(Palatinus)に由来する。この丘では、壮麗な建物の建設と再建が繰り返されたので、様子は時代の移り変わりとともに劇的に変化した。その詳細は定かになっておらず、文献によってもかなり認識が違い、現在も活発な議論が行われている。 現在は、ローマ帝政期に造られたアウグストゥス、ティベリウス、ドミティアーヌスなどの元首(皇帝)の宮殿の遺構を目にすることができる。これらすべての建物を合わせて一般に「パラーティーヌス宮殿」(Domus Palatina もしくは Domus Palatinae)と呼ばれる。 パラーティーヌスの丘とアウェンティーヌスの丘のあいだには、王政期に建設されたと言われる大競技場、キルクス・マクシムス(伊:チルコ・マッシモ)がある。 |
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パラーティーヌスの丘の復元図です。 キルクス・マクシムス(伊:チルコ・マッシモ)側から見たパラーティーヌスの丘(伊:パラティーノの丘)です。細部は不明なので完全な復元図ではありません。あくまでもイメージだと思ってください。パラーティーヌスの丘に造られた建物はかなり高層で、立体的なので、参考になると思い作りました。緑色の部分は庭など(実際に緑が生い茂っていた)と思われる個所です。 細かい建物の名前や解説は、下記の地図をご覧ください。 現在のパラーティーヌスの丘(Google Maps):航空写真 |
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地図上の番号や名称をクリックすると下記の解説に移動します。 この地図は参考文献をもとに河島が再現したものです。パラーティーヌスの丘の理解にはかなり異説が多く、見解が分かれています。この地図は文献の中でも特に、Scagnetti, Francesco and Giuseppe Grande. Roma Urbs Imperatorum Aetate. Roma: 1997の理解に従っています。 |
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地図の名称と解説。 |
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番号 | 日本語 | ラテン語 | 解説 | ||
(A) 地図へ |
オクターウィアーヌス・ アウグストゥス邸 |
Domus Augusti | 初代元首、オクターウィアーヌス(アウグストゥス)の家。以前は弁論家のホルテンシウスの家(Domus Hortensii)であったが、オクターウィアーヌスが購入した。 ティベリウス邸のほうから入ることができる。 スエトニウスが証言するように、オクターウィアーヌスの敷地内にはアポロン神殿が建てられていた。 後に周囲の邸宅と結び付けられて巨大な宮殿の一部となった。 |
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(1) 地図へ |
パラーティーヌスのアポッロー神殿 | Templum Apollonis Palatini | アウグストゥスによって、28 B.C.にパラーティーヌスの丘に建てられたアポッロー(アポロン)の神殿であり、ローマでもっとも有名な神殿のひとつ。また、ローマにおける2番目のアポロン神殿(最初のものは431
B.C.にマルスの野に建てられた)である。 神殿はおそらく柱廊に囲まれており、その柱の間にダナオスの娘たちの50体の彫像が置かれていた。またその彫像の前には彼女たちの夫(アエギュプトスの息子たち)の50体の騎馬像が置かれていた。 また柱廊の一部、もしくは柱廊からつながる建物に、アポロン図書館(bibliotheca Apollinis)があった。 また、ローマの公的な占いであり、もっとも重要な予言の書である「シビュッラの占い書(Sybyllae)」は以前はカピトーリーヌスの丘のユピテル神殿に置かれていた。その予言書をアウグストゥスはこのアポッロー神殿のアポロン像の台座の下に移した。 このアポッロー神殿はときに「勝利者ユピテルの神殿(Temple of Jupiter Victor)」と呼ばれることがある。しかしユピテル神殿ではなく、アポッロー神殿であり、古代の証言の中で語られるユピテル神殿の場所はおそらく地図:36であると思われる。 |
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(2) 地図へ |
アポロン図書館 | Bibliotheca Apollinis | オクターウィアーヌス・アウグストゥス邸の中に置かれたアポッロー神殿(アポロン神殿)に付属する図書館。 図書館は二部に分かれ、ひとつにラテン語の書籍、もうひとつにギリシア語の書籍が置かれていた。その壁には、有名な著者の場合、肖像が彫られていた。その広さは、元老院議員が集会を行なうのに十分な広さだった。 |
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(3) 地図へ |
中庭 ペリステュリウム |
Paristylium | オクターウィアーヌスの居住のための建物の中にあった中庭。 | ||
(4) 地図へ |
リウィア邸 | Domus Liviae | オクターウィアーヌス・アウグストゥスの妻、リウィアの邸宅と呼ばれる家。 | ||
(5) 地図へ |
貯水池 | Piscina | 柱廊に囲まれた水場。リウィア邸の裏側にあった。 | ||
(B) 地図へ |
ティベリウス邸 | Domus Tiberiana | 第2代元首、ティベリウス・カエサル・アウグストゥス(Tiberius Caesar Augustus、前42-後37)の邸宅。 第3代元首、カリグラ(ガーイウス・ユーリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス)によってフォルム・ローマールムのカストル神殿側に拡張された(地図:1)。 後80年ころにウェスパシアヌスによって取り壊され、ドミティアーヌスの治世に再建された。 |
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(6) 地図へ |
カリグラ邸 (ガーイウス邸) |
Domus Gai | 第3代元首、カリグラ(ガーイウス・ユーリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス、Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus)がティベリウス邸を、フォルム・ローマールムのカストル神殿側に拡張して建設した。 | ||
(7) 地図へ |
ガーイウスのアトリウム | Atrium Gai | 第3代元首、カリグラがティベリウス邸を拡張してガーイウス邸(地図:1)を建設ときに、造ったアトリウム(玄関広間・前室)であると考えられている。 | ||
(8) 地図へ |
ガーイウス邸の入り口の間 | Vestibulum | 従来はアウグストゥス神殿があったと考えられてきたが、そうではなくてガーイウス邸のアトリウム(地図:2)へと続く入口の間(玄関)であると思われる。 | ||
(9) 地図へ |
中庭 ペリステュリウム |
Peristylium | ティベリウス邸の中心に造られた中庭。列柱廊に囲まれていた。 | ||
(10) 地図へ |
丸天井の部屋 | ティベリウス邸の南西側には丸天井(アーチ型の天井)の部屋が続いていた。その2世紀ごろの遺構は今も目にすることができる。 | |||
(11) 地図へ |
いけす | Vivarium | 丸天井の部屋のひとつの上階には、魚を生きたまま保存しておくための「いけす」があった。 | ||
(12) 地図へ |
(地下)回廊 クリュプトポルティクス |
Cryptoporticus Neronis |
ティベリウス帝の南東の側にある回廊。アーチ型の天井と壁に覆われた通路で、ネロが作ったと言われている。 |
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(C) 地図へ |
フラーウィウス邸 | Domus Flavia Domus Flaviorum |
後1世紀の終わりごろにフラーウィウス朝の元首たちが建設した邸宅。この建物と南東に隣接するアウグストゥス邸(Domus Augustiana、地図:D)を合わせてドミティアーヌス邸(Domus
Domitinani)と呼ぶ場合もある。もしくは、二つの建物を合わせてアウグストゥス邸と呼ぶ場合もある。 第11代元首ティトゥス・フラーウィウス・ドミティアーヌス(Titus Flavius Domitianus)が後91年に建設した。彼は有名な建築家であるラビリウス(Rabirius)に設計させた。 この建物は居住には使われず、元首の職務執行のための公的な施設として用いられていた。 |
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(13) 地図へ |
(地下)回廊 | Cryptoporticus | ティベリウス邸とフラーウィウス邸を結ぶ地下回廊。 | ||
(14) 地図へ |
フラーウィウス邸の入口の間 | Vestibulum | フラーウィウス邸の入り口の間。建物の北東に位置するこの入口が正式な玄関であった。 | ||
(15) 地図へ |
中庭 ペリステュリウム |
Peristilium | フラーウィウス邸の中心に位置する巨大な中庭。ヌミディア産の大理石でできた見事な列柱に囲まれていた。中心には八角形の大きな水盤が置かれていた。 | ||
(16) 地図へ |
バシリカ | Basilica | フラーウィウス邸の北側に位置するバシリカ。柱廊に囲まれていた。 この部屋の地下からは、帝政初期の建物の遺構が発掘されている。 |
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(17) 地図へ |
王室 アウラ・レーギア |
Aula Regia | 王室と呼ばれている広間。大理石で覆われ、壁には12個の壁がん(像を置くためのくぼみ)が作られていた。 この部屋は最も大きく、30m X 37mの広さで、天井が非常に高かった。 謁見などを行なう部屋に使われていたと思われる。 |
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(18) 地図へ |
ラレースの間 | Lararium | フラーウィウス邸の北側に位置する部屋。家の神であるラレースの名をとった、「ラレースの間」と呼ばれている。 この部屋の地下からは前1世紀の家の遺構が発掘された。 |
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(19) 地図へ |
食堂 | Triclinium | 宴会などを行なう食堂。フラーウィウス邸の南西の部屋で、色とりどりの大理石で覆われていた。 この食堂の左右には「ニンフの泉(Nymphaea)」と呼ばれる長円形の噴水があった。 この食堂の地下には第5代元首ネロが建設した「通路の邸宅(DomusTransitoria)」の遺構が残る。この邸宅は、ティベリウス邸とパラーティーヌスの丘にあった他の屋敷とを結びつけてひとつの巨大な建物になるように設計されたものであったので、この名で呼ばれているようだ。このネロの邸宅は、後64年の大火のときに焼失した。 |
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(D) 地図へ |
アウグストゥス邸 | Domus Augustiana Domus Augustana |
フラーウィウス邸の南東部分の建物がアウグストゥス邸と呼ばれる(地図:Cの解説を参照)。第11代元首ティトゥス・フラーウィウス・ドミティアーヌス(Titus
Flavius Domitianus)が後91年に建設した。フラーウィウス邸と同様にラビリウス(Rabirius)が設計した。 アウグストゥス邸には東側に位置する競技場(地図:E)も含まれる。 フラーウィウス邸が公職のための建物であるのに対し、アウグストゥス邸は居住のために用いられた。 アウグストゥス邸の遺構はかなり残されているが、実際の部屋の役割などについては解明されていない。 全体は北側と南側に分けられる。建物には3つの大きな中庭があり、その周りに各種の部屋があった。北側の二つの中庭(地図:20、21)は上階にあり、南側の中庭(地図:24)は下階にあった。 |
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(20) 地図へ |
中庭 ペリステュリウム |
Peristilium | アウグストゥス邸の北側の大きな中庭。この中庭のすぐ脇(北側)には半円形のドーム(エクセドラ、exedra)が付いていた。 | ||
(21) 地図へ |
中庭 ペリステュリウム |
Peristilium | アウグストゥス邸の中央に位置する中庭。中心には大きな池が作られていた。 | ||
(22) 地図へ |
書斎 タブリヌム |
Tablinum | 中央の中庭(地図:21)西側脇にあった書斎。様々な執務を行なうのに使った。 | ||
(23) 地図へ |
ニンフの部屋 | Nymphaeum | 中央の中庭(地図:21)の東側に造られた部屋。ニンフの部屋(泉の部屋)と呼ばれている。中央の中庭の池と関係があり、水場があったとおもわえっる。 | ||
(24) 地図へ |
中庭 ペリステュリウム |
Peristilium |
アウグストゥス邸の南側に位置する中庭。キルクス・マクシムス側にあるエクセドラ(地図:27)から続いていた。中心には美しい形の池があった。下図は池のデザインの再現と、実際の写真(Cambridge 2000の画像)。
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(25) 地図へ |
書斎 タブリヌム |
Tablinum | 南側の中庭(地図:24)の北側に隣接して造られている二つの書斎。中庭のすぐ北にある。様々な執務を行なうのに使った。 | ||
(26) 地図へ |
ドミティアーヌスの寝室 | アウグストゥス邸の南側の下階、南の中庭(地図:24)にあったドミティアーヌスの寝室。警備のために奥まったところにあり、非常に小さな部屋で質素だった。 | |||
(27) 地図へ |
エクセドラ | Exedra | 半円形のテラス。列柱に囲まれており、キルクス・マクシムスに向かって開かれていた。 | ||
(E) 地図へ |
競技場 馬術場 |
Hippodromus |
アウグストゥス邸に付属する建物で、東側に位置するのが「馬術場(Hippodromus)」と呼ばれる競技場。ヒッポドゥロムス(Hippodromus)と一般的に呼ばれるが、この名前はこの競技場の形からとられたものであり、実際に馬車競争が行われていたは定かではない。しかし、競技場の南端には馬車が通ることができる幅の通路があった。おそらく競技場をかたどった大きな中庭であったと思われる。
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(28) 地図へ |
エクセドラ | Exedra | 競技場(Hippodromus、地図:E)の南東の建物の最上階には半円形のドーム(エクセドラ)があった。これは第14代元首のハドリアーヌス(プーブリウス・アエリウス・トラーヤーヌス・ハドリアーヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus)が作ったとされる。 | ||
(29) 地図へ |
セプティミウス・セウェールスの浴場 | Thermae Septimii Severi | 基礎部分はドミティアーヌスが作ったものであるが、その上に第20代元首ルーキウス・セプティミウス・セウェールス(Lucius Septimius Severus)が浴場を建設した。形が特徴的。 | ||
(30) 地図へ |
皇帝観覧席 | Puluinar Imperatoris | 競技場(地図:E)の南側に位置し、キルクス・マクシムスに向かっている「皇帝観覧席」。キルクス・マクシムスで行われる馬車競技を観るための観覧席と言われるが、定かではない。 | ||
(31) 地図へ |
ニンフの部屋 | Nymphaeum | 貯水池と関連付けられた泉のニンフの部屋。水場があったと思われる。 | ||
(32) 地図へ |
貯水池 | Piscinae | クラウディウスの水道橋によって運ばれてきた水をためる貯水池。 | ||
(33) 地図へ |
クラウディウスの水道橋 | Arcus Aquae Claudiae | 後38年にカリグラによって建設がはじめられ、後52年にクラウディウスによって完成した水道橋。水の運搬に問題が起こり、71年にウェスパシアーヌスによって、81年にティトゥスによって改修された。 | ||
(34) 地図へ |
復讐者ユピテル神殿 ヘラガバルス神殿 |
Templum Iovis Ultoris Templum Helagabali |
アウグストゥス邸(地図:D)の北東に位置する巨大な神域。 周囲を列柱廊で囲まれ、かなり広い庭を有している。この神域がどの神に捧げられたものか、神殿であるのかも定かではない。 建築はアウグストゥス邸と同じころで、ドミティアーヌスによって作られた。 復讐者ユピテル神殿とされる場合もあるし、他にもさまざまな仮説がたてられている。太陽神ヘラガバルス(Helagabalus)のための神殿であるとも考えられる。 |
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(35) 地図へ |
偉大な母の神殿 | Aedes Matris Magnae | 神々の母親とみなされるキュベレーのための神殿。前204年に建設された。何度か焼失し、そのたびに再建されている。アウグストゥスによって後3年にも再建された。 | ||
(36) 地図へ |
勝利者ユピテル神殿 | Templum Iovis Victoris | 「勝利者ユピテル神殿」と呼ばれるものがあったことは、古代の証言によって確かである。しかしその神殿が、パラーティーヌスの丘のこの遺構であったかどうかは定かではない。 | ||
(37) 地図へ |
ルペルカル | Lupercal | 雌狼がロームルスとレムスを育てたと言われる洞窟。パラーティーヌスの丘のふもとにあった。 | ||
(38) 地図へ |
キルクス・マクシムス 大競技場 |
Circus Maximus | 大競技場(キルクス・マクシムス)の意味で、イタリア語ではチルコ・マッシモ(Circo Massimo)。王政期に造られたとされる最初の競技場であり、ローマで最大のもの。パラーティーヌスの丘とアウェンティーヌスの丘のあいだに造られた。縦600m、幅150mであった。 歴代の元首によって再建と増設がなされて、15万人を収容することができた。 戦車競技が行なわれることが最大の目的であったが、その他さまざまな催しが行われた。出発地点はにはスタートゲートが付けられていた。周回となるように真ん中で区切られ、南東側の端は半円形に整えられていた。 |
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(39) 地図へ |
オベリスク | キルクス・マクシムスの中心線の一部にはオベリスクが建てられていた。このオベリスクはアウグストゥスがエジプトから運んだもので、前1300年頃にファラオのラムセス2世が造らせたもの。 このオベリスクは現在ローマの中心街であるポーポロ広場に移されている。 |
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現在のパラーティーヌスの丘(Google Maps):航空写真 |
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このページの最終更新 2008/1/30 | |||||
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