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カピトーリーヌスの丘

カピトーリーヌスの丘(カンピドッリオの丘)はローマの中心的存在であった。このカピトーリーヌスの丘について、少しずつ情報を掲載したいと考えています。 


地図

地図左の地図はカピトーリーヌスの丘部分のアップです。
カピトーリーヌスの丘の位置については、「ローマの地理」をご覧ください。

灰色の部分は道を表しています。

【1】:ユーノー・モネータ神殿
【2】:ユピテル神殿
【3】:オプス神殿
【4】:フィデース神殿
【5】:公文書館(タブラーリウム)
  (以前は、アシュールム)
【6】:セルウィウスの城壁
【7】:タルペーイアの岩


地理

 カピトーリーヌスの丘(海抜およそ50メートル)はティベリス河沿いに隆起しており、四方から独立している。ただし、本来はクイリーナーリスの丘とのあいだに鞍部(谷間)があり、緩やかにつながっていた。この鞍部は、トライヤーヌス帝の時代(98-117年)に行なわれた開発のために、ほとんど原形をとどめず、今では二つの丘は完全に離れている。

 伝説上ローマの最初の集落は、パラーティーヌスの丘の上に作られた「ローマ方形原領域(ローマクアドラータ)」であると語られる。パラーティーヌスの丘に初期の集落が作られたことは考古学的にも確認されるが、同様にカピトーリーヌスの丘にも初期の居住区があったようだ。


ローマの地理 「ローマの地理」:カピトーリーヌスの丘の位置を確認できます。

現代のカピトーリーヌスの丘 現代のカピトーリーヌスの丘(google map):航空写真


二つの頂と鞍部

カピトーリーヌスの丘には二つの頂がある。
 ・「地図の北側」(セルウィウスの城壁【6】に囲まれた上部)
 ・「地図の南側」(セルウィウスの城壁【6】に囲まれた下部)

北側の頂は「アルクス(砦)」と呼ばれ、文字通り砦の役割を果たしていた。紀元前343年に、ここに「ユーノー・モネータ(Iuno Moneta)神殿」(地図【1】)が建てられた。Monetaとは「忠告者」の意味を表すものであるが、この神殿でのちに貨幣を鋳造したことから、monetaは「貨幣」という意味にもなった。そのことが、今日の「マネー」という言葉につながる。中世になって「聖母マリーア・インアラチェーリ教会堂」がその場所に建てられて、現在に至る。

南西の頂には、古代ローマの主神である「ユピテル神殿」(地図【2】)が建てられていた。この神殿には至善至高のユピテル(Optimus Maximus Jupiter)が、ユーノーとミネルウァとともに祀られた。ユピテル神殿は前6世紀頃に建てられ、前1世紀に再建された。度重なる破壊で姿は留めていないが、現在でも土台の一部がコンセルヴァトーリ宮殿の裏手に見られる。

ユピテルとユーノーとミネルウァという、ローマの三大神を祀る神殿は、ローマの権威を象徴するとともに、ローマの中心がこの場所にあることを示している。だからこそ、この丘はカプット(caput、頭・筆頭)という言葉から作られた「カピトーリーヌス」という名を持つのである。パラーティーヌスの丘が政治家である貴族たちの住居として用いられて、「政治の中心」であることと対比的に、カピトーリーヌスの丘は「宗教の中心地」であり、ローマの守護の要である。

 実際に二つの頂の中間には、「アシュールム(asylum)」(地図【5】)が置かれていた。アシュールムとは、避難所を意味する場所であり、どんな人でもいかなる暴力からでも逃れることができる聖域を指す。いわば、駆け込み寺のような場所であった。世俗の秩序を超越した安全地帯がこの場所に置かれていることも、カピトーリーヌスが神的な中心地であることを示している。
 このアシュールムの場所には、前78年に「タブラーリウム(公文書館)」(地図【5】)が造られ、中世末期にはその上に元老院宮殿が建てられた。今日でも元老院宮殿(Palazzo Senatorio)と呼ばれ、ローマ市庁舎として使われている。その建物の基盤に、石垣だけではあるが、タブラーリウム(公文書館)の痕跡を目にすることができる。


タルペーイアの岩

 カピトーリーヌスの丘の南部に、「タルペーイアの岩(ラ:saxum Tarpeium、伊:Rupe Tarpea)」(地図【7】)と呼ばれる崖がある。国家的犯罪者はその崖から突き落とされて処刑されていた。この「タルペーイア」という言葉は、エトルリア起源の言葉であり、そもそもカピトーリーヌスの丘は「タルペーイアの丘」と呼ばれていた。しかし、この「タルペイアの丘」という呼び名はローマ建国伝説以前のものであり、伝説が創造されるなかで岩の名前としてのみ残されることとなった。ただし、この岩のそばには「タルペーイアの墓」と呼ばれるものがあり、年に一度この墓を祀る儀式がおこなわれていたと伝えられている。

 史実はどうあれ、このタルペーイアはローマ建国伝説のなかにもエピソードを残している。ローマ建国初期、初代の王ロームルスを筆頭とするローマは、近隣のサビーニー人と戦争を行なっていた。その時に、スプリウス・タルペーイウスという男が、カピトーリーヌスの丘の防衛隊長に任命されていた。タルペーイアはその彼の娘である。

 ところで、サビーニー人は左手に黄金と宝石の腕輪をはめることを習慣としていた。そのことを知っていたタルペーイアは、ローマを包囲していたサビーニー人に対して、彼らが「左手に持っている物」を報酬としてローマを裏切り、カピトーリーヌスの城門を開けることを密約した。夜中にこっそりと、約束通りに城門を開けた彼女は、サビーニー人の兵士に報酬を要求する。すると兵士は、「左手に持っていた大きな盾」を彼女に投げつけた。彼女はその重みのために死んでしまった。

 タルペーイアの岩が国家に反逆した罪人を落とす処刑の場となったことは、彼女のこの裏切りを縁起譚としている。

 ただし、このタルペーイアの伝説には諸説ある。代表的なもうひとつの別伝は、彼女がサビーニー人の王ティトゥス・タティウスに恋をしてローマを裏切ったとするものである。この説は、プロペルティウスが歌った(第4巻4)ことでよく知られている。


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このページの最終更新 2008/1/27
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