ルテティアはセーヌ川の南側(左岸)に建設されました。以下の地図は、分かっている限りの当時の街の構造です。当時の街の区画は、現在のパリに色濃く残っています。パリ(ルテティア)に紹介したGoogle Mapsと比べてみるとよくわかります。下の地図に表わした主要な道路は、現在のパリの主要道路と重なります。
クリックすると大きな画像を見ることができます。2009. Shiro Kawashima.
≪各地の名称≫
①シテ島(セーヌ川)
②サン=ルイ島
③フォルム(広場)
④浴場
⑤浴場
⑥浴場
⑦円形闘技場
⑧主道路(メインストリート):南北
⑨墓地
現在のパリ、つまりルテティア・パリシオールム(Lutetia Parisiorum、パリシー族のルテティア)はシテ島の上に築かれていたパリシー族の要塞を継承している(詳しくはシテ島とセーヌ川)。ローマ人はその後、左岸に町を広げた。
町の構造は、南北に走る主道路(⑧)を中心に格子状に道路が引かれるという一般的な様式。中心にフォルム(③)があり、その周りに主要な公共施設や娯楽・経済活動のための建物、そして神殿が建てられていた。
地形は現在のパリと類似している。現在のパリは古代の都市の上に築かれているために、当時の海抜よりも若干高いと思われる。しかし、現在のサン=ジャック通りがそうであるように、セーヌ川からフォルムにかけて緩やかに上っていた。⑤浴場から③フォルムまでの高低差はおよそ15メートルあった。
フォルムの脇に建てられていた公共浴場(⑥)を含め、3つの公共浴場跡が確認されている。フォルム周辺の建築物は豪華な造りであったと思われるが、公共浴場も充実していたようだ。⑤の公共浴場はその遺跡を現在でも眼にすることができる。
一般的にローマの都市は城壁に囲まれているが、ルテティアには初期の帝政時代には城壁が築かれていなかった。5〜6世紀になって初めて城壁が築かれるようになる。
墓地が比較的市内に近い地点(⑨)におかれていた。一般的には聖域の外に墓地を作るのが普通のローマ人の様式である。しかしこの街においては、町の中に作られている。場所は、地下に採石場があった場所に近い。